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【アラベスク】  第7章 雲隠れ (後編)



第1節 MI・TSU・RU 依存症 [1]




 恋に落ちた。

 すれ違うたび、漂う芳香が夢を魅せた。
 実際には別に香水などをつけていたワケでもないだろう。シャンプーにしたって、残るほど強烈な香りではなかったはずだ。
 だが優輝(ゆうき)は、確かにそこに、香りを()た。
 緩やかな髪。黒々とした瞳。人見知りしながら、はにかみながら笑む唇。
 だがテニスの試合になると、そのしなやかな手足が踊るように力を発揮する。
 強さとしなやかさ。(しと)やかさ。
 欲しかった。

「今日の勝利は、お前だけのモノじゃあないんだぞ」

 そう言われるたび、優輝は独占欲を振り払った。

「お前は恵まれている。この世の中には、学校に通えない子供だっていっぱいいるんだ」

 そう言われるたび、己の欲求不満を押し込めた。

 この世には、俺のモノなんて一つもない。
 すべては共有され、欲しがることは許されない。

 許されない。

 その現実に疑問を持ったのは、いつだろうか?
 なぜ? なぜ俺は、欲しがる事を許されない?
 手を伸ばせば届くのに。
 そう、その少女は、優輝がちょっと手を伸ばせば届くところに存在する。

 欲しかった。

 その髪が、その手足が、その笑顔が欲しかった。
 朝、目が覚めるたびにその想いは強くなる。今までサッカー以外へは向けられたことのなかった興味が、ズルズルと引き寄せられていく。
 もはやサッカーなんて、どうでもいい。
 そうだ。どう頑張っても自分のモノにならないのなら、手放したって構わない。
 サッカーも、成績も、すべてを捨てても構わない。
 構わないから、君が欲しい。





 澤村(さわむら)優輝はタバコを咥え、慣れた手つきで火をつける。金属性オイルライターのフタをパチンと鳴らし、同時に白い息を吐く。
 その甘く、だが鋭く端正な面持ちは、今は冷たく病的に白い。
 サッカーから離れて、闇に()かれて姿を変えた。昔を知る者なら、本人とはわからないかもしれない。それほどに優輝は姿を変えた。
 だが美鶴(みつる)には、そして里奈(りな)にも、彼が彼だと理解できる。
「欲しいんだ」
 甘く掠れた、色のある声。

「二人だけの秘密な」

 耳元で囁かれた言葉が耳底を突く。美鶴を捕らえた、華のある声。
 優輝は身体を捻り、芝居がかった仕草で左腕を里奈へ伸ばし、片手を腰に当て、薄く笑った。
「お前が欲しいだけなんだよ」
 そのゆったりとした声音ゆえに、次の行動には言葉も出ない。
 いきなり右足で美鶴の腹を蹴り上げる。
 突然の事に呼吸が止まり、薄暗い視界がさらにボヤける。
「やめてぇっ!」
 悲鳴が響く。鼻をススる音。
「やめてよぉ」
 情けない泣き声が、本当に里奈だと美鶴に教える。
 本当に、里奈が、目の前にいる。







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