恋に落ちた。
すれ違うたび、漂う芳香が夢を魅せた。
実際には別に香水などをつけていたワケでもないだろう。シャンプーにしたって、残るほど強烈な香りではなかったはずだ。
だが優輝は、確かにそこに、香りを魅た。
緩やかな髪。黒々とした瞳。人見知りしながら、はにかみながら笑む唇。
だがテニスの試合になると、そのしなやかな手足が踊るように力を発揮する。
強さとしなやかさ。淑やかさ。
欲しかった。
「今日の勝利は、お前だけのモノじゃあないんだぞ」
そう言われるたび、優輝は独占欲を振り払った。
「お前は恵まれている。この世の中には、学校に通えない子供だっていっぱいいるんだ」
そう言われるたび、己の欲求不満を押し込めた。
この世には、俺のモノなんて一つもない。
すべては共有され、欲しがることは許されない。
許されない。
その現実に疑問を持ったのは、いつだろうか?
なぜ? なぜ俺は、欲しがる事を許されない?
手を伸ばせば届くのに。
そう、その少女は、優輝がちょっと手を伸ばせば届くところに存在する。
欲しかった。
その髪が、その手足が、その笑顔が欲しかった。
朝、目が覚めるたびにその想いは強くなる。今までサッカー以外へは向けられたことのなかった興味が、ズルズルと引き寄せられていく。
もはやサッカーなんて、どうでもいい。
そうだ。どう頑張っても自分のモノにならないのなら、手放したって構わない。
サッカーも、成績も、すべてを捨てても構わない。
構わないから、君が欲しい。
澤村優輝はタバコを咥え、慣れた手つきで火をつける。金属性オイルライターのフタをパチンと鳴らし、同時に白い息を吐く。
その甘く、だが鋭く端正な面持ちは、今は冷たく病的に白い。
サッカーから離れて、闇に魅かれて姿を変えた。昔を知る者なら、本人とはわからないかもしれない。それほどに優輝は姿を変えた。
だが美鶴には、そして里奈にも、彼が彼だと理解できる。
「欲しいんだ」
甘く掠れた、色のある声。
「二人だけの秘密な」
耳元で囁かれた言葉が耳底を突く。美鶴を捕らえた、華のある声。
優輝は身体を捻り、芝居がかった仕草で左腕を里奈へ伸ばし、片手を腰に当て、薄く笑った。
「お前が欲しいだけなんだよ」
そのゆったりとした声音ゆえに、次の行動には言葉も出ない。
いきなり右足で美鶴の腹を蹴り上げる。
突然の事に呼吸が止まり、薄暗い視界がさらにボヤける。
「やめてぇっ!」
悲鳴が響く。鼻をススる音。
「やめてよぉ」
情けない泣き声が、本当に里奈だと美鶴に教える。
本当に、里奈が、目の前にいる。
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